2025年1月10日
一歩ずつ
謹賀新年
新しい一年が始まりました。一月が誕生月の私は、もうすぐまた一つ歳を重ねます。思えば太鼓と共に長い年月を歩いてきたものです。
この歳になれば、あらためて大仰な年頭の抱負など披瀝するつもりはありませんが、ただ一言、今年の指針は「一歩、一歩」。急がず、慌てず、今の我が身にできることを、ただ愚直に一歩ずつ。
そんな私ですが、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
2024年12月24日
2024年をしめくくる「嬉しいこと」「悲しいこと」
2024年は1月1日午後4時10分に発生した『令和6年能登半島地震』の恐怖に始まり、その後は地震に由来するあれやこれやの出来事に深く関わり、振り返ればあっという間の一年だったように思います。そんな日々の中にもとくに心に残る「嬉しいこと」と「悲しいこと」のできごとがあり、一年のしめくくりとしてここに記録します。
まず「嬉しいこと」として、太鼓奏者の第一人者である林英哲氏の「これまでの永年にわたる功績と、演奏活動55周年に向けて前途を祝する会」を開催できたことです。1970年の『佐渡國鬼太鼓座』の入座以来、国内外でさまざまな舞台に立たれ、太鼓奏者として初めてカーネギーホールで演奏したことや、世界の著名なオーケストラとの共演などを経て和太鼓を芸術の域にまで高めた英哲さんは、2022年、アジア地域の優れた文化の振興と相互理解および平和に貢献した人に贈られる『福岡アジア文化賞』の大賞(日本人ではアフガニスタンで銃撃に倒れた医師の中村哲氏が前年に受賞)受賞に続き、同年秋の叙勲で『旭日小綬章』を受章、さらに2024年には、中国地方において文化・芸術、学術・教育の各分野で功績のあった人たちを顕彰する『中国文化賞』 を受賞されました。これらの輝かしい顕彰に対し、「太鼓に関わる者としてお祝いの場を設けてはどうか」と『英哲風雲の会』の木村優一さんに相談したのがきっかけで、去る12月13日、英哲さんの懇意な人々や風雲の会のメンバーと共に『ホテルオークラ東京』にてお祝いの会が実現できました。英哲さん、50年以上にわたり大変お疲れさまでした。これからもどんな舞台を見せてくれるか、楽しみにしています。
そして、なんと、その席上、英哲さんから私に「感謝状」が贈られたのです! まったく思いがけないことでしたが、大判の賞状には英哲さんの思いが込められた直筆で感謝の言葉が綴られ、私は不覚にも驚きと感動の涙で視界がぼやけて、その場では文面を拝読する余裕もありませんでした。まことにまことに有り難く、あらためて心より御礼を申し上げます。

一方、「悲しいこと」として、12月16日、私の中で長く「心の師」と仰いできた、高知の明神宏和先生が逝去されました。先生とのお付き合いは、土佐山田太鼓創設の前年、今から38年前に始まりました。その後、先生は高知県内の全市町村に太鼓を普及され、つい最近までお元気で指導に出向いておられました。まさに見事な生きざまでした。白寿(99歳)まで天寿を全うされ、今頃は天国で奥様と再会され、楽しい会話をされていることでしょう。
お別れの時には、高知の太鼓の未来を担うであろう若者たちが心を込めて「送り太鼓」を打ち鳴らしました。「ああ、太鼓は『心』だ」。これほど心を感じたことはありませんでした。
そしてその数日前には、『公益財団法人日本太鼓財団』元理事長の大澤和彦氏が逝去されました。財団が『日本太鼓連盟』の時代から組織づくりに尽力され、その仕事ぶりに敬意を表します。6月の理事会で、辞任が決まった後、電話越しに「何とも残念だ」と悔しさを口にされていた声が今も耳に残っています。何があったのでしょうか……。今となっては、どうぞ心安らかにお眠りください。合掌
さて、読者の皆様には、この一年、たくさんの思いを寄せていただき、ありがとうございました。お陰さまで浅野昭利、今年も元気で活動することができました。どうか今後ともご向上のほど、よろしくお願い申し上げます。
そして皆様にはどうか良い歳の暮れと新年をお迎えくださるよう、心より祈っております。
2024年12月 6日
78度の謎
いやはや、まさに光陰矢のごとし。ついこの前2024年の年明けを迎えたばかりの心地ではあるが、月ごとのカレンダーを見ればもはや最後の1枚。いつの間にか過ぎた日々に、この一年、どれほどの足跡を刻めただろうか。
などと詮ないことを思いつつ、目の前の桶胴をながめているうち、ふと、不思議なことに思い当たった。

今では多くのステージで誰もが当たり前のように使っている桶胴太鼓の英哲型台。この台はその名の通り、ソロ奏者の林英哲氏の考案による。今から50年ほど前、英哲さんから図面を渡され、記された指示通りに組み上げた。そしてでき上がった台の前の2本の柱が、地面に対して78度の傾斜を持つ。この78度、直立でもなく、倒れすぎでもない、絶妙の角度。考案した本人は、どのような計算で78度という角度を編み出したのだったろうか。
あれから50年が過ぎた今も誰も角度を改良することがないことを考えれば、打ちやすさはもちろん、デザイン的な美しさや、太鼓を支える力学的なバランス、立奏する身体のラインとの対峙性、はたまた・・・などと、私自身、あの時は何の疑問もなく製作した台ではあるが、今になって妙に気になってきた。
次に英哲さんにお会いする時には、78度という角度が演奏にもたらす効果や、角度を含めた工業的な効果など、ぜひおたずねしてみたいものだ。
2024年11月12日
白寿を迎えたお祝いー太鼓祭りー
11月10日、高知県春野町で、白寿を迎えられた明神宏和先生を祝う太鼓祭りが盛大に開催されました。県内各地から集まった15の団体が、明神先生への敬意を込めて心に残る唯一無二の演奏を披露。若者や子供たちも数多く参加し、太鼓文化の未来を感じさせる場となりました。
先生は、地域の結束と子供たちの教育を願って太鼓文化の普及活動を始められました。その想いは地域に深く根付き、多くの人々が太鼓の響きに魅了されています。今回の祭りも、先生への感謝と敬意があふれる温かな場となりました。
また、先生は私に「まだやりたいことがある」と力強く語られ、その言葉に心を打たれました。振り返れば、17年前に初めて太鼓祭りを主催される前から、40年以上にわたり遠方への指導に精力的に取り組まれ、今の太鼓文化を築き上げてこられたのです。
当日は、世代を超えた演奏が繰り広げられ、子供や若者、お母さんお父さん方、そしておじいちゃん、おばあちゃんに至るまで「家族だ」というテーマの温かさが感じられました。私もまた、石川県でこのような絆を築きたいと強く願いながら帰路につきました。
最後に、関係者の皆様、本当にお疲れ様でした。これからも高知の太鼓文化が一層輝き続けることを、心から願っております。
2024年9月 7日
昭和22年 父 義雄 製作の虫送り桶太鼓
太鼓のロープを丁寧に外し、革をめくると、そこに「昭和22年」の年号が書かれていました。それは、私が生まれた年でもあります。その瞬間、まるで過去と現在がつながるような不思議な感覚に包まれました。薄暗い工房の中、戦後の混乱期に父が黙々と太鼓を作り上げる姿が目に浮かび、胸がじんと熱くなりました。

昭和22年(1947年)といえば、物価統制が厳しく、革や素材の入手もままならない時代。それでも父は、自分の手で地域の伝統を守り、行事を支えようとしていたのだと思うと、その姿勢に改めて頭が下がる思いです。この太鼓は、単なる楽器ではなく、父の苦労と工夫、そして家族への思いやりが詰まった証です。
自分が生まれた年と同じ書印は、父と自分の人生がどこかで交差しているような、不思議な縁を感じました。革の内側に刻まれたあの時代の空気、父の手のぬくもり、そして家族と地域を大切に思う気持ちが、すべてこの一つの太鼓に宿っているように思えて、言葉にできない感謝と誇りが心に湧き上がります。そして、父の足跡と自分の原点が重なり合うのを感じ、自然と手を合わせたくなるような、静かな感動が胸に広がり、今もなお私を励まし続けてくれているのだと感じると、目頭が熱くなるのを抑えられません。
2024年8月28日
心に残る2枚の絵:「新聞配達人」と「鮭」
台風が近づくこの季節、私たちは自然の力の前に少し立ち止まり、日々の生活を優しく見つめ直すことができます。そんな時、日経新聞の文化欄で目にした二枚の絵が、困難を乗り越える勇気と力を静かに与えてくれました。
笠木治郎吉画伯の「新聞配達人」2024年7月4日日経新聞朝刊掲載

笠木治郎吉画伯の「新聞配達人」は、郵便配達員が毎日の仕事に対して持つ強い意志と責任感を、力強く描いています。この絵からは、彼の体から発するエネルギーが伝わってきます。彼の姿勢、表情、そして一挙手一投足から、「お前たちも一生懸命に日々を大切に生きよう」というメッセージが聞こえてくるようです。この作品を通じて、私たちも日常の中での小さな努力を見直し、新たな価値を見出すきっかけになります。
高橋由一画伯の「鮭」2024年8月26日日経新聞朝刊掲載

一方、高橋由一画伯の「鮭」は、鮭の迫力ある生命力とその生きざまを、リアルに描き出しています。日本の狩野派の伝統的技法と西洋画法の融合により、深い感情と現実が見事に表現されています。この絵は言葉を持たずとも、私たちの内面に深く訴えかけ、生の現実と向き合う勇気を静かに与えてくれます。
「新聞配達」と「鮭」の二つの作品は、私たちが日常で直面する挑戦や苦労を象徴しており、それを乗り越えるためのヒントや励ましを静かに提供してくれます。日経新聞の文化欄で紹介されたこれらの作品を通じて、私たちは自分自身と向き合い、心新たに日々を過ごす力を見つけることができるでしょう。
台風の上陸が予想されます、皆様、十二分にお気をつけください。
2024年8月 5日
炎天下の太鼓祭り
7月下旬に富士山樹空の森で第37回「富士山太鼓祭り」が開催されました。この祭りは、大太鼓日本一決定戦や第13回全国高校生太鼓甲子園を通じて、日本の伝統文化である和太鼓の魅力を広く伝える場として、多くの観客を魅了しました。
思い返せば、太鼓が初めて舞台で演奏(公演)されるようになったのは1973年頃のことです。それから50年の歳月が流れ、太鼓の演奏スタイルは形を整えてきましたが、その基本的な演奏法は時代を超えて受け継がれています。1976年、モノクロールという手法によって太鼓は音楽としての深みを増し、「和太鼓」と西洋の「太鼓」が明確に区別されるようになりました。その時期の演奏は、単なるリズムや音の響きを超えて、太鼓を芸術として昇華させたのです。
特に、ボストンシンフォニーホールでの演奏では、著名な指揮者である小澤征爾氏から「これは理屈ではなく、筋肉と心が一体となり、血が脈打っている。本物のリズムがここにある」と高く評価されました。
このような賛辞を受けたことは、和太鼓の新たな可能性を示すものであり、その芸術性が世界に認められた瞬間でした。
そして、当時の太鼓演奏者たちが稀に見る努力と研鑽によって生み出した、仏教的な「忘我」や圧倒的なパワー、そして伝統的な太鼓にはなかった音楽的な表現は、今でも大きな影響を与え続け、和太鼓の演奏に新たな命を吹き込んでいます。
2024年の今日、演奏法や音に対するこだわりはもちろんのこと、視覚的な衣装や演奏者の肉体的な鍛錬が求められています。これらの課題に対して、一人ひとりが深い意識を持ち続けることで、和太鼓の響きはこれからも持続可能な文化としての命を繋いでいくことでしょう。
2024年7月20日
2024エクスタ「復興と鼓動 太鼓の力」を終えて

この度の2024エクスタを無事に終えることができ、改めて太鼓の持つ不思議な力を実感いたしました。故郷が異なる奏者たちが、一心不乱にリズムを合わせ、自己を主張することで、音と魂が同化し、観る者や聴く者に太鼓の魅力を十二分に伝えることができた舞台でした。
太鼓は古代から続く日本の文化遺産であり、その響きは私たちの心の奥深くに刻まれています。この公演を通じて、太鼓文化が持つ根源的な力と、その共鳴する音が持つ力強さを改めて感じました。太鼓の鼓動は、人々の心をつなぎ、共鳴させる力を持っています。
老若男女を問わず、一人の人間として、一人の奏者として太鼓と一体化する姿に、太鼓文化の未来への大きな可能性を見出すことができました。太鼓は単なる楽器に留まらず、私たちの精神と共鳴する存在です。
すべての出演者の皆様、そしてご来場いただいたお客様に心から感謝と御礼を申し上げます。
「能登に響く力」を!!
2024年7月 5日
白山国際太鼓エクスタジア2024/07/05 復興へ鼓動〜響く力!

1993年の「壱刻壱響祭」から数えて第30回目となる太鼓コンサート「白山国際太鼓エクスタジア」の開催が、あと1週間後に迫ってきました。今回の願いは、なんといっても元日に発生した「令和6年能登半島地震」で被災した太鼓団体の皆さんに、前向きのエネルギーを奮い立たせていただける舞台にしたい。そんな思いで、サブタイトルを「復興へ鼓動〜響く力!」と。幕開けを飾っていただくのが、被災地まっただ中で手を挙げてくださった「能登・豊年祭り太鼓合同チーム」。七尾市と志賀町の七つの団体が一つになり、能登を愛する太鼓打ちの皆さんの熱い心意気を存分に太鼓にぶつけていただきます。

また佐渡島の「太鼓芸能集団 鼓童」や、2000年の噴火で島外避難を余儀なくされた三宅島出身の「三宅島芸能同志会」などが、巧みな打芸を繰り広げます。世に太鼓イベントは多くありますが、レベルの高さでは自信を持っておすすめできるエクスタジアに、どうぞおいでください。
2024年4月24日
「成田太鼓祭」で渾身の打ち込みに聴き入る

4月20・21日、千葉県の成田山新勝寺境内を中心に、恒例の「成田太鼓祭」が今年も開催されました。今回は30周年記念ということもあり、例年にも増した賑わいで、2日間の演奏参加者はおよそ830人。コロナ禍以来、低迷がちだった太鼓界において、久し振りに活気づいた二日間でした。
中でも、まさに「血湧き、肉躍る」ごとくに全身が熱くなり聴き入ったのが「夜舞台」での鼓童&三宅同志会の演奏。強烈な音魂がはじき出される、この熱さは何なのか! 太鼓に向き合う姿勢、全身全霊でひたむきに打ち込むことでほとばしる音のすさまじさ! 真摯に太鼓に向かい合う者だけが勝ち取る太鼓の清々しい響き!
あらためて惚れ惚れと聴き入った太鼓に、久し振りに心を奪われた舞台だった。